日本は中国でなにをしたか ―侵略と加害の歴史―(日中友好協会・愛知県連合会)
1 はじめに…歴史から学ぼう
1931年9月18日の満州事変から日本は本格的な中国への侵略を始めた。1945年8月15日の日本の敗戦まで、14年間にわたる日本の中国侵略戦争です。(中国では「抗日戦争」と呼んでいます)。明治維新(1868年)直後から日本は欧化政策でイギリス、フランス、ドイツなど西洋列強と隣国ロシアの侵略主義を模倣しました。しかし、それは良いところを学ぶのではなく、「富国強兵」政策による侵略戦争の歴史(領土の拡張、植民地化)でした。日清、日露戦争で勝利し、隣国朝鮮を併合し、その延長として中国東北部にも手を伸ばしました。そして中国全土に計り知れない惨禍を与えました。
日本にも無謀な戦争でなく、話し合いによって紛争を解決しようとする理知的で有能な官僚や学者文化人もいました。ところが絶対的な天皇制や軍人の暴走を止められませんでした。また、治安維持法は最高死刑によって人々の心の中まで取り締まりました。歴史から学び、二度と戦争をしないようにすることが、私たちの責任です。
2 日本は中国でなにをしたか
➀ 平頂山事件
1932年9月15日の夜から、日本の侵略に対して抗日義勇軍が撫順炭鉱を襲撃しました。日本軍は16日、「抗日義勇軍が通過したのに通報しなかった」として、撫順炭鉱に隣接している平頂山地区の住民を「写真をとってやる」などとだまし、1か所に集め3千人余りを虐殺しました。その後、死体に重油をかけて燃やし、崖をダイナマイトで爆破、その土砂で死体を覆ってしまいました。ほとんどの住民は虐殺されました。現地では虐殺された遺骨を掘り起こしたそのままの様子を「撫順平頂山惨案遺跡記念館」で知ることができます。
② 南京大虐殺事件
1937年12月、日本軍は中華民国の首都南京の攻略戦で、投降した中国軍の兵士や一般の市民や難民に対して虐殺を行いました。日本軍による中国人虐殺は20万人におよびます。中国はユネスコに南京虐殺の資料を世界記憶遺産として登録申請し、2015年10月10日登録が発表されました。

③ 毒ガス使用と七三一部隊
毒ガス使用は世界的に禁止されていましたが、日本軍は国際法違反と知りながら使用しました。また、七三一部隊は1936年に旧満州・ハルビン郊外の平房に設けられ、国際法で使用が禁じられていた毒ガスや細菌兵器の開発・製造を目的としました。中国人・ロシア人捕虜をペスト菌やコレラ菌に感染させ、生体解剖をおこない、凍傷実験に用いて3000人以上を虐殺しました。
1945年8月の敗戦時には証拠隠滅のため施設を爆破し、監禁していた捕虜を殺害し、1000名以上の隊員が日本に逃げ帰りました。
石井四郎部隊長(軍医中将)らは米軍への研究データの提供と引き換えに、極東国際軍事裁判でも訴追されませんでした。七三一部隊に従事した人員は軍人・軍属あわせて3560名(2012年厚生労働省による。西山勝夫滋賀医科大学名誉教授発掘の資料では3607人)、日本各地の大学の研究者も多く加わっており、ソ連に抑留されたごく一部を除き責任を問われるどころか戦後の医学界に復帰し栄達しました。

④ 三光作戦・三光政策
1940年8月から10月上旬の2回にわたる八路軍の「百団大戦」(八路軍の百余団が参加したことからの呼び名)で、甚大な被害を受けた日本の北支那方面軍は、主要な敵を国民政府軍から共産党軍へ、さらに軍隊から民衆を相手にする作戦へと移し、反撃と報復のための大規模な「燼滅掃討作戦」を展開しました。「燼滅掃討作戦」とは、八路軍の根拠地を燃えかす同様になるまで徹底的に破壊して消滅をはかる作戦で、あまりの残虐さから、中国では、焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)す「三光作戦」と呼びました(「光」は中国語で「何もなくなる」という意味です)。
⑤ 日本軍慰安婦・性奴隷
アジア太平洋戦争中、「慰安所」といわれた戦地の施設で日本軍人のために女性たちが性的な虐待を受けました。中国では1932年上海に設置されたのが最初といわれ、37年の中国への全面侵略戦争以降急増。軍が直接管理するもの、民間産業によるものなどがありました。「慰安婦」の多くは強制的に集められた中国や朝鮮の女性でした。

⑥ 重慶爆撃
南京を日本軍に占領され、重慶に臨時首都を移すと、日本軍は1938年12月から43年8月まで、重慶と周辺に爆撃を繰り返しました。特に集中的な攻撃が実施されたのは、1939年から41年です。中国側のまとめでは空爆は218回に及び、爆撃による直接の死者だけで1万1000人を超えています。
無差別爆撃は、1937年4月26日にドイツ空軍が実行したゲルニカ爆撃が最初とされますが、重慶爆撃は集中期だけでも2年半という長期に及ぶ、けた違いの連続無差別爆撃でした。無差別爆撃はその後アメリカ軍が日本の各都市に対して行ったこともあって、戦後の極東軍事裁判では七三一部隊とならび、日本の加害行為として追求されませんでした。

⑦ 中国人強制連行・強制労働
アジア太平洋戦争開始にともなう深刻な労働力不足にたいし1942年、東条内閣は「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定、1943年4月から45年5月までに3万8939名の中国人を日本に連行し、日本各地の35社135の事業所に配分しました。劣悪な労働環境や虐待で6834名が死亡しました。
日本各地への強制連行の以前に中国国内でも桁違いの強制連行・強制労働が行われ、「満州国」の鉱山などで強制労働させられた中国人は1640万人、華北地方では2000万人以上。それ以外に、華北から華北以外の地へ強制連行された中国人が1000万人にのぼります。飢えと過労、病気や事故も重なり膨大な数の中国人が犠牲になり、その遺体が捨てられた「万人坑」が中国各地に残されています。
3 「鬼」から人間へ 中国に渡った日本兵たちは、実際の殺人を強要される新兵訓練で、人間性を失くし「鬼」に変貌させられました。
東京帝国大学を卒業し、26歳で徴集された富永正三さんは、1945年8月の敗戦でソ連に抑留され、炭鉱作業に従事した後、1950年7月に、約1000名の日本人捕虜とともに、対中国戦犯として撫順戦犯管理所に移されました。そこでは、拷問ではなく「坦白」(罪の供述)を求められ、「上官の命令で行った」と主な罪行を書いて提出すると、「少しも苦しまないで書くという態度は中国人民に対する最大の反抗者である」と批判され、かつて日本軍の監獄だった地下の独房に入れられました。
そこは、かつて日本軍にとらえられ殺された「反満抗日」の英雄たちが収監された場所でした。コンクリートの壁には「打倒日本帝国主義!」など、死の直前に書かれた血のにじんだ字が浮かび上がりました。ゾーッと背筋が寒くなって、はじめて殺される側の気持ちがわかり、被害者にとって、「上官の命令だから仕方がなかった」では許されないと実感できました。富永さんは、その後結核性カリエスと診断され入院。3年を超える中国側の手厚い看護を受ける中で、「人間はどうあるべきかが分かった」と語っています。
人間が「鬼」になるのは、過酷な環境の中で追い詰められ、自ら残虐行為を行った瞬間、人間性を失う変化が起こる。しかし、「鬼」が人間に戻るためには、人間として大切に扱われる体験を通じ、長い時間をかけてやっと変化することが証言されています。
富永さんは「鬼」から人間に戻り、1956年8月、最高人民検察院の起訴免除を受け釈放され、帰国しました。
4 おわりに… 真実を見抜く英知を身につけよう
日中戦争とは何であったのか、日本人は、その侵略の歴史から、何を学んだかをアジアや世界から問われています。侵略の事実から、平和の教訓を学び、共存共栄へと発展させていく英知が私たちには求められています。「負の遺産」を「正の遺産」へ転換する責務があります。
