愛知にもあった中国人強制連行(大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会)
強制連行・強制労働というと、朝鮮半島からの徴用工の問題が最近の大きな話題になっていますが、歴史に目を向けると、日本軍の強制連行は侵略した多くの地域で見られます。そして、日本内地への中国人強制連行は、1942年の東條英機内閣での閣議決定にはじまります。
「中国人強制連行」って何のこと?
強制連行・強制労働というと、朝鮮半島からの徴用工の問題が最近の大きな話題になっていますが、歴史に目を向けると、日本軍の強制連行は侵略した多くの地域で見られます。
例えば日中戦争時、中国華北から「満州国」や中国国内の鉱山等に多数の中国人が送られ強制労働をさせられました。元「従軍慰安婦」も、中国などで強制連行されたことが証明されています。
そして、日本内地への中国人強制連行は、1942年の東條英機内閣での閣議決定にはじまります。当初の「試験移入」ののち、1944年「本格参入」となります。中国人強制連行は企業が提案し、日本政府(軍)によって実行されました。
一体何をしたんですか?
戦争の終わり頃1944年から、日本の35の企業と政府が一体となって大勢の中国人を連行し、敗戦まで日本各地で奴隷のように働かせたのです。
強制労働を強いられた本人はもちろんですが、残された家族もまた働き手を失い、大きな被害を受けています。
なぜそんなことを?
当時の日本は、日中戦争からアジア・太平洋戦争へと突き進み、働き盛りの男たちが戦場に駆り出され、国内は深刻な労働力不足でした。その穴埋めのため、まず日本の植民地であった朝鮮半島から大量に徴用し、続いて中国大陸からも連行することにしました。
その結果、役4万人の中国人が海を渡って日本に強制連行され、北海道から九州まで、全国の炭鉱、土木建設や港湾整備など、135の事業場に送り込まれたのです。
どのように扱ったのですか?
当時中国は敵国ですから、中国人への扱いはひどいものでした。ろくに食べ物も与えずに、劣悪な環境と過酷な労働を強いたのです。
日本人監督からの虐待もありました。約4万人の強制連行者のうち、約7千人(17%以上)が亡くなりました。
日本は強制連行被害者に対して謝罪しましたか?
戦後日本政府は、1946年には中国人強制連行についての『外務省報告書』を作成しましたが、その後は強制連行を隠し続けてきました。1993年に『報告書』が現存することが明るみに出、政府もそれを認めると、日本各地で被害者が、「謝罪と賠償」を求める裁判を起こしました。
そのうちの一つ、広島の西松建設強制連行裁判で、最高裁(第2小法廷)は被害者の訴えを退けはしましたが、判決のまとめで次の提言を行いました。
最高裁の提言 2007年4月27日
「本件被害者らの被った精神的・肉体的苦悩が極めて大きかった一方、上告人(西松建設)は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け、さらに前期の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると、上告人を含む関係者において、本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである」
「上告人を含む関係者」に対して、「被害者らの被害の救済」を求めた最高裁のこの提言は、西松との和解を実現しました。
被害者の高齢化・死去が進む現在、三菱マテリアルとの大規模な和解も成立しようとしています。
ただし和解はすべて企業との間で行われたものです。国家が「謝罪と賠償」をする、全面的な和解・解決が求められています。
地崎組の中国人強制連行
外務省事業場報告書
地崎組事業場別死亡・負傷者状況表
大府の中国人強制連行
最近の動向とこれからの展望
内閣総理大臣宛に謝罪・補償等を求める文書を提出
華人労務者移入・閣議決定75周年院内集会(2017年11月)