人はどこまで残虐になれるのか ― 細菌兵器の非人道性(日中友好協会愛知県連合会)
① はじめに
2019年末から猛威をふるい続けている新型コロナウイルス(COVID-19)の感染により、世界中で死者が増え続け、私たちは現在、感染症の脅威に日々さらされている。そして、世界中で感染症を一刻も早く終わらせるため研究・開発の努力が行われている。
日本はかつて、戦争を有利に進めるため、この恐ろしい感染症を故意に引き起こす生物兵器の研究・開発を行い、実際に使用した歴史を持っている。私たち日中友好協会愛知県連合会は、今年の「平和のための戦争展」のテーマに、かつて日本が中国で行った生物兵器の開発・研究の拠点であった731部隊及び100部隊を、再度取り上げることにした。
② 関東軍第731部隊について
関東軍第731部隊は、3000人の生きた人間を「マルタ」と称して生体解剖、毒薬実験、冷凍実験、乾燥実験など、悪魔のようなやり方で、生体実験の材料にしたとして、森村誠一の『悪魔の飽食』等で有名である。
731部隊は、1932(昭和7)年、陸軍軍医学校防疫部の下に、石井四郎ら軍医5人が所属する「防疫研究室」が設置されると同時に、満州(ハルピンの背陰河)への研究施設の設置に着手したのが始まりである。
1936(昭和11)年、関東軍参謀長板垣征四郎の意見具申を受け「関東軍防疫部」が新設され、同時期に新京(現長春)の「関東軍軍馬防疫廠」も編成された。組織拡張のためハルピンの平房に新施設を建設し、1940(昭和15)年に完成し、名称も「関東軍防疫給水本部」と改編した。表向きは兵士の感染症予防やそのための衛生的な給水の研究を掲げたが、裏では細菌戦のための生物兵器の研究と開発を行った。
1940(昭和15)年には、浙江省の寧波、金華、玉山などの都市に対して「ペストノミ」、「コレラ菌やチフス菌の菌液」を大量に散布している。その結果を731部隊の指揮官太田澄は、部隊長石井四郎に「ペスト大流行」と誇らしげに報告している。そのメモが1993(平成5)年に防衛庁防衛研究所図書館の資料から発見されている。
細菌兵器の製造は資源に乏しい日本にとって安価にできるため、戦費捻出のためのアヘン同様、国際法を侵して実行された。
731部隊は大規模な人体実験を行うため、関東軍憲兵隊・警察局・保管局・特務機関と共謀して「特別移送」(特移扱)を実施し、数多くの中国人・ソ連人・朝鮮人を生きたまま細菌感染や凍傷にさせ、実験や生体解剖を行った。731部隊はペストやコレラ・炭疽・鼻疽等少なくとも50種類ほどの細菌実験を行った。

新版 悪魔の飽食
著者:森村誠一
角川文庫

NO MORE 731日本軍細菌戦部隊
著者:15年戦争と日本の医学医療研究会 (編)
文理閣

関東軍第七三一部隊罪証図録
編著者:侵華日軍関東軍七三一部隊罪証陳列館、哈尓濱市社会科学院七三一問題国際研究中心
五洲伝播出版社
③ 関東軍「第731部隊」と姉妹部隊「第100部隊」
関東軍第731部隊と100部隊との関係は「悪魔の姉妹」とされる。表向きは日本から移送する軍馬の防疫・保護が目的とされたが、各種動物実験は731部隊同様に細菌戦のためであった。
1931(昭和6)年に引き起こされた「満州事変」当時、「北満」では、馬・ラバ・ロバ・羊などの間に多くの伝染病が広がっていた。
特に馬は軍馬として、自動車の少ない日本軍にとって、砲兵や輜重(軍隊の荷物)の輸送手段として極めて重要であったが、「満馬」(満州地方の馬)には⦅鼻疽(びそ)⦆という病気が大流行しており、関東軍は1936(昭和11)年、新京(長春)の寛城子に病馬防疫廠を作り、全国から人材を集めた。その後、1938(昭和13)年、孟家屯に新しい庁舎を作り、1941(昭和16)年、部隊の名称も100部隊と改称された。
当時、第1部から第4部、さらに牡丹江支庁まであった。各部には厩舎があり、軍用に出来なくなった軍馬約1,000頭を飼い、実験、血清製造用動物として利用していた。
特に恐れられていたのが、日本国内には無い⦅鼻疽(びそ) ⦆と⦅炭疽(たんそ)⦆という病気であった。⦅鼻疽⦆は治療法なく殺処分するほかなかった。
④ 数少ない証言
100部隊隊員(軍曹)であった三友一男は、『細菌戦の罪』(泰流舎)の中で自分の経験を告白している。それは厚い軍事機密のうちのほんの一部にすぎないが、その一部を紹介しよう。
「自分は「鼻疽」菌と「炭疽」菌について学んだが、危険きわまりない「実験場の事故で死んだ場合はひとり1万円(日銀の公式の算出によれば、昭和16年時点で現在の約3500万円)の弔意金が支払われる。」と聞いていた、という。

細菌戦の罪―イワノボ将官収容所虜囚記
三友 一男 (著)
出版社: 泰流社

細菌戦軍事裁判―記録小説
山田 清三郎 (著)
出版社: 真樹社
⑤ 関東軍特種大演習について
100部隊創設の翌年、1937(昭和12)年7月に盧溝橋から日華事変が勃発したが、ソ満国境でも紛争が起き、日本軍がソ連砲艦を撃沈。1938(昭和13)年7月の張鼓峰事件(ソ満国境)、1939(昭和14)年5月のノモンハン事件と両事件で関東軍は完敗した。
だが強硬路線は変えず、1941(昭和16)年ドイツが独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻すると、それに呼応してウラル山脈を境にして日独でシベリアを分割するという野望をもって関東軍特種大演習を実施した。兵員70万人、軍馬14万頭、飛行機600機。この中で約400名の牡丹江支廠を設立した。
⑥ ハバロフスク国際裁判
三友一男は、ハバロフスク国際裁判で、大きな河川では上流の細菌汚染は下流では大きな脅威にならないと証言している。太平洋戦争の南方への拡大により関東軍は当時の精強部隊を失っていた。そこで細菌兵器の登場となる。三友によれば、100部隊と731部隊との合同で細菌砲弾の発射実験が行われ、万年筆型の注射器や細菌弾発射用小型拳銃もあったという。
100部隊の「人体実験については、その非人道的な点を指摘されれば、一言の抗弁の余地もないことだった。ほんの一握りの者しか知らないこの実験のことがすっかりソ連に知られていることが、いぶかしかった…」と述べている。
被告三友が述べ、ソ連側の怒りと憎悪を招いたのは、「生きた人間を使用する実験は1944年8月と9月に行われ、被実験者は7,8名の中国人とロシア人だったこと」である。実験に使用された薬品の中には朝鮮朝顔、ヘロイン、ヒマシ油の種子があった。「秘密保持のために、被実験者は、皆殺されたが、一人のロシア人は松井研究員の命令で青酸カリ10分の1グラムの注射で殺された」とある。
ただ、100部隊における人体実験は、殺戮よりもスパイの自白を引き出すための諜報戦と言われているが、いずれにしても人体実験は許されるものではない。
⑦ ハバロフスク国際裁判の結果
…(被告29名のうち2人のみ例示)
▼山田乙三…25年を期限として矯正労働、収容所に収容。
▼三友一男…15年を期限として矯正労働、収容所に収容。
しかし高齢の山田乙三は早く釈放され、三友も日ソ国交関係正常化にともない、1956(昭和31)年末釈放・帰国させられた。
⑧軍医たちのその後
1945年に日本の敗戦が濃くなると、731部隊や100部隊は証拠隠滅のため主要な建物や設備を爆破して慌ただしく逃走した。
米国は戦後、日本人戦犯処理のための東京裁判を主導したが、731部隊の戦争責任を免除することを条件に、人体実験や細菌戦のデータの全容を入手した。戦後そのデータをもとに、米軍は、朝鮮戦争やベトナム戦争で、細菌戦や化学兵器の使用を行っている。そして731部隊は戦後裁判を逃れた。
本来なら極東国際軍事裁判で裁かれるべきこれらの日本人戦犯は、戦後は悪魔の鎧を脱ぎ、公然と日本の政府機関や医療機関、大学等で公職についた。
1980年代に血液製剤によるエイズや肝炎を始めとした薬害を、次々と起こしたミドリ十字の幹部に、多くの731部隊の軍医たちがついたのは、その一例である。
⑨ おわりに
かつて日本は、生物兵器の研究・開発のために人間を使って生体実験を行った。この所業は日本が軍国主義の狂気の下で犯した歴史的事実として真摯に反省しなければならない。そして、感染症研究は人類の幸福のためにのみ行われるべきものであることを、歴史から学び胸に刻まなければならない。
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